■ エッセイ正 門編:私の中の中国

※ このエッセイは TOPページ 「正 門 編」 に掲載したものです。。

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※ このエッセイは「日常編」に掲載していますが、私の中国への想いとし此処へも掲載しました。



私の中の中国について(10.5.15)

最近元気が出てきました。
約半年間は、「やる気」が起きず、落ち込む時があったり、腹が立つことがあったりと、、集中力が落ちていました。

仕事の為、家族の為、、色々な犠牲を払って単身赴任を14年間続けました。
日本国内ではありません、異国「中国」へ単身赴任を14年続けたのです。

生活習慣、生活文化の違いで、命を落とした知り合いも四名おられます。

でも、自分の家族や会社の為に体を張って仕事をしました。
もちろん、私が中国の習慣に馴染んだのと、、中国人が私を好いてくれたから長い間仕事を続けられました。

しかし、しかしです。。
父の病状悪化で、「私が描いていた目標」半ばで帰国しました。

しかし、しかしですョ。。
父からは、喜んでくれるどころか、、「長年・・親をほっといて中国へ逃げとって・・・」と言われ・・
会社からは、、長期休暇も却下され、「話し合う余地はないですね・・・」と捨て台詞を言われ・・
還暦での定年退職になりました。

妹からはも、同じ様に嫌味を言われ、、

それでも、死にかけた父をほっといて中国へはいけません。

幾ら認知症で、「被害妄想、痴呆、色情症」が出ているとはいえ、、
父からは、「よぉ帰ってきてくれた」の言葉は聞かれませんでした。

しかし、95歳にもなった父は正常じゃない。
正常な父ならきっと、「喜んでくれる」そぉ自分に言い聞かせ、
看病しましたが、、帰国から50日後に亡くなりました。

父は、現役召集兵で傷痍軍人でした。勲六等も貰って、第六項症でした・・インパウル作戦の生き残りです。
(詳しい傷痍軍人の詳細の説明は省きます。)
ですから、年を取るほど、、被害妄想がひどくなりました。

私に出来る、父に対する最後の親孝行は、
葬儀のあいさつで「インパウル作戦の生き残り」と言う事実を告げることでした。
不自由な左手になった原因、被害妄想がひどかった原因を告げました。

刀傷九か所、鉄砲傷二か所の肉弾戦を語りました。
父から、幾度となく聞いていた事を語りました。

私の中で、父が、父ならきっと喜んでくれると・・そぉ信じて勲六等を受賞した父の肉弾戦を語りました。

しかし、喜んでくれると信ずる父の葬儀の場での挨拶では、、本人には伝わりません。


夜勤ですが再就職をし、働き出しても、、「中国へ逃げやがって・・・」の父や妹の言葉は脳裏から消えませんでした。

しかし、捨てる神あれば拾う神あり。

母は理解してくれ、喜んでくれました。
「もぉ中国へ行かんでもええんか。。」
「あんたも仕事は大事にせにゃ、いけんで。」
そぉ言ってくれました。

母も認知症ですが、私の帰国を素直に喜んでくます。
しかし、半年間というもの・・・・何か落ち込んでいました。

14年間私が生活した中国。

父や妹が、中国へ逃げとってから・・という中国。

会社からは、嫌味で、中国人になっらあかんでといわれる中国。

その中国の思い出を・・思い出しながら、 ■ 「思い出の中国」を書くことにしました。

※ 父の葬儀の時、父の戦争を語らずして父は語れずと挨拶しましたが、、

私は・・・・中国を語らずして「私」を語れずの思いになり、、元気になりました。

ジャ又、再見!


■ これから、wujingが復活します。お楽しみに。。